もともと朗々と朗読をすることには抵抗感があることを何度かここで書いてきたのですが、もちろんそのように読まれるかたを否定するわけではなく、幼いころ陥った失声症が関係しているのかいないのか、ちがう要素なのかもしれないけれども、自分はそのようなアプローチをとることができずにいましたし、これからも(よっぽどの企図がないかぎり)予定はありません。
そんな経緯で、先日いっぴに場をいただくことになったとき、じゃあどうしようか、と考えました。
わたしはテクストを書くことはしてきたのですが、朗読のような肉声という身体性をもってしまうこと、それはうえに書いたことと絡み合い、とてもハードルが高いことでした。
そして身体表現を、音の表現をしていらっしゃるかたとご一緒できる場で、おふたりの表現にうまく呼応したいな、と頭を絞りましたが、テクストしか書くことを担ってこなかったわたしになにができるのだろう、と一筋が見えるまで相当時間がかかりました。
そんななか、詩集を音読用に変えるべくぎりぎりまで赤をいれて改変しつづけていたなか、ああそうか、テクストへの“批評”として音読すればいいのかもしれない、と腑に落ちた一瞬がありました。それからいろいろとメタなレイヤーを重ねていったところ、なんとか当日に間に合った具合です。ただ、もう少しご一緒したおふたりに目を向ける余裕をもてたらよかったのにな。
そして、わたしだけではなく、おふたりの即時的な反応もわたしのテクストの読み上げに対峙してくださる“批評”のひとつだったのだな、と思うにつれ、どうして動画を撮っておかなかったのだろう頼まなかったのだろう滅多にないのに! とそこそこがっくりです。
こんご展開するプロジェクトの打ち合わせも進んでて、それはもう少しちがう毛色になりますが、みなで作り込んでいく洞窟は楽しいです。
とりとめもなく徒然なるまま、よしなに。