ここのところ宣伝をしていました〈ヒガヨン・セラ〉というリーディング・パフォーマンスのvol.1が無事(ありがたいことに)盛況のうちに終わりました。
イヴェントの最中はチームの誰も全体像を見ることができないため、終わった直後は自分自身にたいする反省しかできませんでしたが、こわごわ記録映像を観直したところ(自分への反省点は変わらなかったですが)重視していたポイントはきちんと網羅的に押さえられていたように映ったので、幾分気持ちも和らいでいます。
わたしはいわゆる一般的な朗読会というものにたいする苦手意識をよく口にするのですが、それでも「リーディング」というものをやりたかったのは、声に出して読むということがどういうことなのか、読み上げるテクストへのその瞬間的な批評的アプローチはもっと多様でいいのではないかと思ったからでした。
もう少し敷衍していえば、声という身体性はもっと生々しい(ゆえに相当危険な)ものだと思っていたので、きな臭い世のなかになっている昨今もあり、自分の態度を決めなければならないとき、細い抜け穴をつないでおきたかったのです。
(故・平岡篤頼先生がクロード・シモンを訳されたとき「どうせこんな文章は読めないだろうから」と検閲を逃れる策として文体がキーだったことを晩年おっしゃっていたのですが、そういう意味での穴です。)
音読/朗読には無数にその穴を空けることだってできるだろう、と思ったわけです。
それが今回のイヴェントでした。
宣伝しておきながら何の説明もしていませんでしたが、〈ヒガヨン・セラ〉Higgaion Selahというヘブライ語は沈黙を示す音楽的な記号であり、ともにこの企画をはじめた藤原(安紀子)さんとプログラム名を決める際迷うことなく決まったのも、この一見強制的な沈黙の促しに見える言葉が、しかし口にそっと人差し指をあてるだけの身振りであるというとても小さな主張であることが関係したようにも、後付けですが、思います。
もちろん、vol.1を終えたばかりでまだまだ加減しながらバランスをよくしたいという思いもありますが、こんごともこれをベースに仕掛けと課題をまた新たに加えながら、しなやかに定期的に行なえればいいな、と願っております。
ご来場くださったみなさま、気にかけてくださったかたがた、鼻持ちならなかった、もしくはいま知ったというかたがた、すべてにこのエントリを一読くださったお礼を申し上げます。