ここのところずっと集中して詰めていた〈ヒガヨン・セラ〉vol.2が一昨昨日に無事終わりました。
ロンドン芸術大学と東京藝術大学の共同企画であるSGFA-Tokyoでの20分公演でした。
サウンド・ジェンダー・フェミニズム・アクティヴィズムというテーマがあり、〈ヒガヨン・セラ〉としてわたしたちが目論むことと近似する方向性だったので、逆に多くのヒントを得ることができました。
以前からずっと温めていた、そのころ名すらなかった〈ヒガヨン・セラ〉の前段階をあきこさんに話し、みるみる話に厚みが出、進んでいったのがちょうど一年前なのだと思うと感慨深いものがあります。
わたしは大学院で1930年代後半の戦時下の近代詩を射程に入れた研究をしていたので(マスター落ちですが)無邪気に音声に近づくことを非常に憂しています。
くわえて、詩篇を仕上げるたびに、音読してメッセージが浮き上がるような作品を制作していないこと、言い換えるとテクストを書く人間でしかないというところに立脚しているという気持ちが強いため、なおさら違和感を強く感じていました。
朗読会に出かけて感じ取ることも重なっていくごとに、わたしの視座は明白になっていくばかりで、このレスポンスはみずからのパフォーマンスで表わさなければ、と考え込み始めたのはそんな日々からでした。
口だけ大将になれば朗読の良さまで否定しまうことになりかねず、それは本懐ではなかった。
だいたいの形は頭のなかにあったのですが、ひとりでぐずぐず思案していても限界があって、実現に向けての動きはなにもできないまま何年も経ってしまっていました。
それから敬愛し、信頼するアーティスト/作家であるあきこさんとお話しする機会に恵まれ、お茶へのお誘いができるような距離になったとき、はじめてあきこさんに、ひとにお話したのでした。
一緒に乗り込んだ地下鉄の座席に腰掛けて告げたわたしにあきこさんはすぐに反応してくださったのですが、わたしのような木っ端があきこさんのような著名な実力者を巻き込んでしまっていいのか、悩んだことを覚えています。
とはいえ、案を出し合っていく立ち上げ時に、同様の歯がゆさを共有可能なあきこさんがいらっしゃらなかったら、〈ヒガヨン・セラ〉はこのようなしなやかな展開ができていなかったでしょう。
あらためて、じんとします。
あきこさんとわたしだけでなく、教順さん、草介さんというフットワーク軽く思い至らないところを実現してくださるふたりがいるからこそ、今回も成立したパフォーマンスでした。
これからも丁寧に考え、ゆっくり活動することを大事にしながら、テクスト外での発表もつづけていきたいと思います。
SGFA-Tokyoでの20分公演の記。
奥間埜乃