秋のスピードは紅葉も

またしばらく更新ができずに時間が経ってしまいました(出だしの定型文句として辞書登録したほうがいいくらい、毎回の冒頭ですが)。

今年は季節の変わり目がはっきりしないまま移っていくので、もう12月という冬期であることが不思議です。

去る10月4日〈ヒガヨン・セラ〉というユニット名で参加したSGFA tokyo@untitledが終わって、のんびり温泉に入ったりちょこちょこ編集や校正などの仕事をしたり研究論文デザインのためにナラティヴ・アプローチのリサーチをしたり、と落ち着かなかった……というのがいちおうの言い訳です。

書いていて思い出した、このころ年明けに雑誌に掲載をしてもらえる詩篇の制作に汗水垂らしていました。

紙/雑誌というメディアにはページの向こうに多くの読者がいる。2020年の年明けという機会に多くの読み手へ向けて発表する、ということを強く意識して制作しました。それもさきほど朱字入れを終えて、お戻ししました。

(告知をしていいのかわからないので、ざんねんながら詳細は控えます。)

一般的には責了と呼ばれるこの期に及んでもなお「このアプローチでよかったのだろうか」と考えます。

仕上がりに納得していない、とか、ちがうことをやりたかった、とか、制約があった(まったくありません)とかではなく、単純にわたしの書きかたとして、この——なんと言えばいいのか——伝達方法が内容にぱちっとはまるピースだったのかということに確信が持てない、という具合です。

おそらくオーソドックスな「形式と内容」というところだけれども、ふだん作る詩篇のトーンと少しちがうことも若干不安に思う理由でしょうか。

とにかくひとつ言えることは、書く紙面をいただけたこと、たいへんうれしいということです。

多くのひとにステートメントを読んでもらえる機会をいただける幸甚を思います。

また先週には、東海大学の創作をするゼミに呼んでいただいて学生さんの前で話してきました。

何をしよう、挙動不審なのにちゃんと話せるのだろうか、と案じていたのですが、蓋を開ければすらすら板書をしもしたので、やっぱり自分は把握しがたい、と呆れもし、変わらぬ厚顔に助けられるやらなんやらでした。

事前にいただいた質問を拝見するに、詩は感情を書きつけるもの、という認識があるように見えたので、現代詩の作家とその作品の多様さを紹介し(ひらがなで織りなされる詩、三点リーダーではなく「・・・」に挟まれる詩、放送禁止コードにかかる語句が多用される詩などを配布)「詩」と「現代詩」として流通するものの異なる点を一緒に話して(ここで相田みつをさんと鈴木志郎康さんを引用し、「にんげんだもの」がその実複雑であること、またきちゆと考えられたことがない「ウフフっちゃ。」のすばらしいことを思いがけず熱く語りました……ものすごく好きだったのだなあと他人事のような感です)それからしこんだ音源を使って朗読とちがった音読を試みてみました。

緊張しましたがとても楽しいひとときで、届き始めた出席者の感想を拝読しても、どれだけ真剣に観てくださったのかわかるレポートで表現するということをあらためて捉え直しています。

今週はちがう大学のゼミに元勤め人としての部分を拡大してお話しするつもりです(小説や現代詩とどう絡められるか、まだ何も考えられていません)。

もう少しつっこんだ記事を書きたかったのに、ひとまず体力気力が尽きないうちに止めておきます。

乱文、誤記、どうぞよしなに(ここまで3周直しています)。


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