2019年大晦日。
いろいろあってたいへんだったでしょ、と友人にねぎらってもらって、そうだったのかもしれないなあ、と思いました。
まずひとつめに挙げるならば、やはり本が出せたことを記したいです。
これまで書き留めたものの推敲、改稿、書き下ろした詩篇を『さよなら、ほう、アウルわたしの水』というタイトルのもとにまとめました。
はじめて編集のかたに見てもらったときの緊張感は神代で、なんの誇張もなく手の震えがいつもより増してひどく(同席された実務を担当してくださるかたに「手の震えってなかなかとまらないわよね」とばれてしまったほど)顔には出なかったものの、からだ中の汗がだらだら出るほどでした。
見てくださったかたは厳しい(と名が知られている)ひとで、鼻で嗤われるくらいですめば御の字、持参した打ち出しを無言で突き返されることも覚悟していました。
信頼する出版社のかたにお見せするということは、編集者のかたがいい本の企画ができるほどの炯眼であることと同義で……とぐるぐるして前日から
そのほか医学用語の勉強、院試、入学、学費の捻出、研究計画書の提出、ワークショップなどがひとつ。
公の紙媒体に声をかけていただき寄稿したこと、本を読んでくださるかたがいたこと、とりあげてもらえたこと、いままで周辺にいなかった現代詩のプロパーである書き手、編集、研究者のかたがたとお話しできたこと、これがとてもうれしかった。
そして何年来もあたためてきた(ひとりではどうにもできなかった)リーディング・パフォーマンス〈ヒガヨン・セラ〉を公演できたこと、もちろん敬愛する詩人のおひとりである藤原安紀子さんとご一緒できたこと、お茶をお酒を飲んだこと、いろんな放言をして笑ったこと、アイディアを一緒に詰めたことは忘れられない事件でした。
幸いなことに来年も〈ヒガヨン・セラ〉を公演する予定がたち、ますます楽しみが広がっています。
来たる二〇二〇年も半径二メートル以内のことをきっちりやりながら、地道に楽しもう、生き延びようと思います。
これ以上はまとまりなく書いてしまいそう(そうでなくともわたしの文章は筋がない)なので、大晦日らしく中原中也の詩篇を引きます。
みなさま、佳いお年をお迎えくださいませ。
除夜の鐘
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜の空気を顫はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
それは寺院の森の霧つた空……
そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。
それは寺院の森の霧つた空……
その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、
その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜の空気を顫はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
(わたしが現代詩に見ているものはこのような〈変化メタモルフォーゼ〉なのではないかな、と思い至れたことはこんご都市を何度変えても大事にします。)