ひとつ前のブログで文章や詩を書くようになった契機をほんの少し記しました。
そしてこんなふうに終えました。
だれからも「夢見がちでファンシーな勘違いちゃん」が書いたと思われたくなかったのですね。
通常と認識されるなかで、詩篇をつくっていこうとしていた。
いま考えれば欲ばりでした。
わたしには周囲の規定に則した日々の生活のなか、詩を書くことは禁忌に近いものがありました。
だから書いても、それはどこか既視感のある、だれかのなにかの劣化コピーにしか見えなかったです。だからまったくつまらないもので、つまらないものだとわかっていても、抜け出し方がわからなかったんです。
そこから抜け出したきっかけは恩師の死と、ワークショップでした。
ひょっとしたら同じような感覚でいらっしゃるかたがいるかもしれない、と思って書き始めたが「覚え書き、1」としたからには「覚え書き、2」を記さねば(しかも引っぱるような閉じ方をしたし)と思っての今回です。
恩師の死、と書きました。
おいくつだったの、と問われてわたしより若い38才でした、と答えると聞いてくださかるかたがたが浮かべられる微妙な表情を思います。
恩師と言えば年長で白髪で髭を生やしたイメージがまず起こりますから、当然でした。
恩師である理由は骨子だけ書けば、オフェンシヴであることとディフェンシヴであることは表裏一体であることをわたしの身体にまでおろして教えてくれた、長い付き合いの逞しいナイスガイでした。
それまでも自分より年若い友人が亡くなったことは数度ありました。 彼ら(男性ばかりです)のことを思い出すと胸が痛いことに変わりはなく、その点でもちろん恩師との差はありません。
では、なにが決定的な打撃だったか。
なぜそんなにショックを受け、かなしみだけで詩篇をたくさん書いたのか。
……ということはうまく説明できないので詩集『さよなら、ほう、アウルわたしの水』を捲ってくださればうれしいのですが(商売上手!*Amazonリンクなのでご注意ください)、ともかく言えることは「かなしい」という言葉を使うだけ、それでは足りなかったんです。兪にもなりようがありませんでした。
それらはわたしが感じている、この余りある慟哭を何も伝えられなかった。
だからなんとか伝えようと一冊になるまで書きつづけたのですね。
いまでも覚えているのが、1月1日に亡くなった翌日の訃報を聞いて、真っ先に、わたしになにができるのか、と必死に考えたときの焦りです。
みずからが執筆を好んでいることに、ことさら重きやアイデンティティを求めたことはなかったのですが、わたしがいちばん長く拘ってきたのは文字だけだったです。
手紙、とすぐに思いました。
でも明晩ひそやかに荼毘にふすと聞いていたので、とうてい間に合わない。
間に合わないのは時間だけでなく、このショックと感情を書き表わすのに、手紙のような客観的方法ではわあっと押し流されるこの気持ちを留められなかったのです。
焦りが増すなか、棺に入れられるようとにかく書かなければ、と書いたものが、詩集に収めた「刻、哭し、時へだて、なぜ? 訊いた」という詩でした。
詩にしよう、などと形式を選ぶ余裕はもちろんなかったので、字義通りがむしゃらに泣きながら書いたため、いまだに読み返すと涙が出ます。
詩集に入れる際もあまり手を加えなかった、めずらしい一篇です。
また不要に長くなってしまいました……。
ワークショップのことは個人名も出さないといけないので、省略します。
ただ書き残したいのは、たいへん敬愛する詩人がその時期ときたま詩のワークショップを開いていたこと、そして上記の一篇をお見せしたことはこれまではじめて感じた閃光でした。
またのワークショップでは参加者のディスカッションだけでなくまず作家の詩篇をみなで精読するところから入る形式で、そのどちらの時間もかけがえのない濃厚な学びの場でした。
そのようにしていまがあります。ようやく呼吸ができるようになったということ。
覚え書きは以上で終了です。
くだくだしいプライヴェートな書きつけにおつきあいくださってありがとうございました。
例によって例のごとく、誤字脱字、日本語が下手なので乱文でもあると思いますが、どうぞよしなに。