現代詩とコンテンポラリー

少し書き貯めていたので、いつもよりは長いです。

ずっと、「現代詩」という謂いに含まれる「現代性」(この言いかたもいまではあまり使われないという印象です)に違和感がありました。

だれの責任でもなく、そう呼ぶしかないことは重々承知です。

でもつきまとうのは、「現代詩」はコンテンポラリー・アートなのか、という問いでした。

詩作品、とくに現代詩と呼ばれる、いつだって摑みようがない区分において、この磁場において、どうしていまだ現在/コンテンポラリーは浸透しないのだろう、と。

ほかのジャンルと同じ〈いま・ここ〉を生きていることは言うまでもないが、アップトゥデイトに視座の共有ができていないという気持ちがわたしには強くかんぜられるからです。

自分がいま、どこでどんな状況下にいて何をして生きているのか、暴虐無慈悲な振る舞いをしてはいないか。

息をしているかぎりどうやっても避けられない暴力性にたいしてせめて意識して生きていたい。だから理論も読むし、さまざまな作品やそこから読み取る批評も、興味が尽きないのです。

批評家をふくむさまざまな書き手/作家が現状をどう受け止めアウトプットしているか、ということ。

そして自分がそこから何を読み取り、実践していくのか、ということ。

理論的な咀嚼が最も飲み込むのに早いので助けてもらっていますが、アンテナに自信があれば完成だけでも〈いま・ここ〉を共有できるかもしれないですとも思えど、それへの期待を大にするにはラッキースケベ感(?)が付き纏うというか、あまりいいイメージがないのですよね。

(単なる完成鋭いかたへのひがみかもしれませんけれど!)

徐々に横に逸れてきましたが、もとに巻き戻しながら付け加えると、〈いま・ここ〉を生きるという意味での「現代」が現代詩からふりすてられてしまっている感を抱いているのです。

だから、コンテンポラリー・アートか、という問いを立てたとき、答えに窮してしまうのです。

余談ですが、わたしの個人的な関心に引きつけて言えば、さまざまに展開してきたフェミニズムの苦労、そして現状がある。そのことを真っ先に考えます。

たとえば、子宮や膣といった「女」を指示する語を何の気なしに組み込まれている詩篇にだれもその突っ込みをしない。それらが好意的に捉えられることに眉を寄せるというより、そうした語への批判的視座を持つことなく無用心で赦されることへの危惧があります。

あくまでわたし個人の関心から見た懸念です。

「女流詩人」からほんとうに脱ているのか、またオブジェ化にどう対抗していくのか。

現代詩というフィールドにおいて、〈いま〉という共時性は機能しているのか、していないのか、こんごも引きつづきわたしの課題として中心に据えていくと思います。

だらだら失礼しました。

どうぞよしなに。

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