現象学的に詩を読むということ

最近、おそらく学生以来となるでしょうか、久しぶりにテリー・イーグルトンと呼んでいます。『詩をどう読むか』(岩波書店、2011)です。

軽妙に飛ばしすぎていない? と思う箇所もあるのですが、そのぶん簡易化されてみえるところも多く、おもしろいです。

そのイーグルトンが本のなかでメルロ=ポンティの現象学的な読みかたに触れていたのが妙に気になって、また最近立つづけに現象学方向からアプローチするフェミニズムやケア理論に当たることが多かったので、それも関係したかもしれません。

そんなわけで、メルロ=ポンティを知ろうと思い始めています。

わたしが学部のころ、メルロ=ポンティについてデリダが他者の我有化の危険性を的確に批判していたこともあり、なんとなく詩的な文体の身体論のひと、という雑なくくりのまま、『眼と精神』『見えるものと見えざるもの』を斜め読みした程度でした。

また鷲田(清一)さんが一手に引き受けていた印象があり、ファッションや演劇、ダンスなど生身の身体を論じる際に援用される理論家のイメージでした。

身体論のひと、とラベリングしてあまり振り返らなかったのですよね。

現象学はフッサールの印象も強く、メルロ=ポンティの名をあまり考えなかったです(わたしはいつでもこうした付け焼き刃でなにひとつ理解していない。)

ですが、ここに来てメルロ=ポンティの現象学的なアプローチ-ーわたしがここで念頭に置くのは『知覚の現象学』での展開なのですがーーから詩というジャンルへの接続をぼんやり思いもします。

さまざまな学問分野で参照されるメルロ=ポンティの理論を、文学理論として、とくに詩篇を扱うときに参照することは読解の要としてうまく機能するのではないか、とヤマカンで思っています。ヤマカンなのできちんとは説明できないもどかしさ。

そんなわけで、イーグルトンと併読してメルロ=ポンティにゆるやかにシフトしていきたい初秋です。

戯言失礼しました。

どうぞよしなに。

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