わたしが妬み嫉みをあまり感じずに生きているのかもしれない、とときどき思う。哀しさとともに。
そんなことをTwitterで少し書いて、でも140字を重ねることでは言葉足らずだったので、ウェブサイトの更新を兼ねてまとめることにしました。
妬み嫉みの感覚がないのは、自分にいっさい期待していないからか、もしくは自分に残されている時間の短さをつねに感じてきたからかのいずれなのだろうと思います。その感覚がいちばんぴったりきます。
だから、わたしにとって妬み嫉みを感じないということは世界ががらんとしていること、その空虚さとかなしみとセットです。
いい歳だか、ということもあると思うけれど、意地悪したろ! って思わないんですよね(そんなこと、みんな思わないのか)。
ただ妬み嫉みがないと言ってしまうと、いつも優等生か聖人君主を気取る綺麗事に間違われる。そう映るのはよくわかるし納得なのですが、でもそのイメージと直結されてしまうことが多く白い目で見られる、遠ざけられる、といったことが起きているのかも、となんとなく憂鬱でいます(たんに嫌われているだけかもしれないのだけども)。
意地悪したろ! とじりじりするくらいがヘルシーなのかもしれない、と思う。
もちろんコントロールを失って嫌がらせにエスカレートするような麻痺はを起こすことは、まったくもって醜悪だけれども、意地悪したろ! と思っての振る舞いはあからさまに自分のネガティヴな感情をダダ漏れにして平気な強さにも見えます。ちゃんと相手がキレられる余地を残して反論にもオープンな意地悪の場合です。意地悪する癖のある外連味は好かないものの、なんというか自分にストレートな屈託のなさはわたしにはないのですよね。ひょっとして、この言いかたをしても、綺麗事を言う聖人からの当て擦りにしか聞こえないかもしれない、と思うと憂鬱さ再び、です。
妬み嫉みを抱けないことは、自分においてとても悲劇的なことだと釈明する機会があった試しがないので、このことについてあままずずっと板挟みでした(です)。
投瓶としてワールドワイドウェブで書き残しています。名も知らぬ遠い島より。